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Cloud(クラウド)のきまぐれ日記
Cloud クラウドのブログ。日々の雑感・・・・・・・人,仕事,時事,金融,家族,ギャンブル,喜怒哀楽その他諸々。
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①から見ていただければ幸いです。

どちらが重厚でどちらが薄っぺらいかは見る人の判断です。

以下のお話は憂国の志士に伝えるまでは無いと思いますが、
常に勉強不足を嘆いている私です。

今回も自分のために書き留めておきます。

特攻隊の話では何度泣いたか分かりませんが、
またもや引用先を見ていて・・・。

朝早くから嗚咽しそうになりますが。
 
今回も引用は多いですし、いつもより長くなります!

実は足らないくらいです。

なぜなら、省略させて載せるところなどないからです。

まず、こちらです。
 
「神風」さんのサイトからたくさん引用させて頂きます。


 
特別攻撃隊の英霊に捧げる  アンドレ・マルローの言葉
(引用始め)
「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得
た。これは、世界のどんな国も真似のできない特別特攻隊である。ス夕-リン主
義者たちにせよナチ党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であ
った。日本の特別特攻隊員たちはファナチックだったろうか。断じて違う。彼らに
は権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかっ た。祖国を憂える貴い熱情があるだ
けだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙
一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志
向を失ってはならないのだ。
戦後にフランスの大臣としてはじめて日本を訪れたとき、私はそのことをとくに陛
下に申し上げておいた。
フランスはデカルトを生んだ合理主義の国である。フランス人のなかには、特別
特攻隊の出撃機数と戦果を比較して、こんなにすくない撃沈数なのになぜ若い
いのちをと、疑問を 抱く者もいる。そういう人たちに、私はいつもいってやる。
《母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に
立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだま
って見すごせるものだろうか?》と。私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生
への執着もすべてを乗り越えて、 いさぎよく敵艦に体当たりをした特別特攻隊
員の精神と行為のなかに男の崇高な美学を見るのである」
二十世紀の思想を代表するフランスの文人アンドレ・マルローは、こういうと床
に視線を落としたまましばし瞑黙した。まさに百の頌詞にまさる言葉であろう。
私はこれ をつつしんで特別特攻隊の英霊に捧げたい。
 (会報「特攻」第8号より引用)
(引用終わり)
 
 
 
そして、石原都知事が製作総指揮を取った映画ですが、
「俺は、君のためにこそ死ににいく」
5/12(本日)に公開になります。まず、その解説を載せます。
 
解説: 第二次大戦末期、特攻隊基地のあった鹿児島県で隊員たちと交流を持っ
た女性の体験をドラマ化した感動巨編。製作総指揮は東京都知事で作家の石原慎太郎。隊員から母のように慕われた鳥濱トメ本人の口から若者たちの真の姿
を聞かされた石原が自ら脚本を書き上げた。特攻隊員役に徳重聡、窪塚洋介、
筒井道隆らが挑むほか、トメ役には大女優の岸惠子がふんする。出撃前の隊員
たちの測り知れない苦悩や衝撃的な特攻シーンに言葉を失う。
太平洋戦争末期、軍の指定である富屋食堂を切り盛りする鳥濱トメ(岸惠子)は、地元の知覧が特攻基地となったことを知る。トメは家族と離れて出撃を待つ若者
たちが自分に会いに来ては飛び立っていくことを引き留めることもできず、複雑
な思いを胸に秘めながら母親代わりとして慈愛の心で彼らを見守り続けていくの
だが……。(シネマトゥデイ)
 



(※舞台となった「知覧」という町については以下参照)
 
 
 


※これ以降は映画の内容と被る恐れがあるのでご注意ください。
(まだ見ていないので分かりませんが)
 








鳥浜とめさんのこと
とめさんは明治35年生に鹿児島県で生まれた。幼いころから子守り奉公など大
変苦労しておられた。結婚後、昭和4年に鹿児島県川辺郡知覧町で富屋食堂を
開業され、知覧に陸軍の基地ができると軍指定となり、少年飛行兵達が多数通
うようになった。その人柄から彼らからは「おばさん」と親しまれた。昭和20年に
知覧基地が特攻基地になると特攻隊員がこの食堂を利用するようになった。
親身になって隊員たちの世話をしたため、隊員たちからは「おかあさん」と呼ば
れ本当の母親のように慕われていた。戦後は旅館を営む傍ら、特攻隊員の供
養を続け、「特攻おばさん」と呼ばれるようになった。
 
 



石原慎太郎 氏の語る鳥浜トメさん

(引用始め)

現東京都知事の石原慎太郎氏(当時運輸大臣)は雑誌
Voiceの随想「美しい日
本の人」の中で、鳥浜トメさんについて書いている。1988年当時に20数年前に
トメさんの話を初めて聞いたということなので、相当長いお付き合いであったと言
えよう。石原氏が国会議員だった時にトメさんが亡くなられたが、その際、石原
氏はトメさんを「国民栄誉賞」に推薦されたそうである。誠に残念ながら時の首相
宮沢氏の無理解により賞の授与には至らなかった。
(下線部参考「勝つ日本」
文藝春秋社・石原慎太郎、田原総一郎)
このように石原慎太郎氏はトメさんをよく知っておられたし、敬意を表しておら
れた。著名な作家でもある石原氏がトメさんについて語ると非常に味わい深く、
その人となりを感じ取っていただけると思い、ここに引用する。

生きた菩薩という言葉があるが、そんな人を私はこの世で一人だけ知っている。
鳥浜トメという、今は多分八十に近い老婆である。
知る人ぞ知る人だが、太平洋戦争が無ければ、彼女はただの平凡な田舎の主
婦として一生を終ったに違いない。しかし戦争は、彼女の家のある知覧の町に
特攻の基地をもうけ、食堂をしていた彼女の家は特別任務を帯びて隔絶された
多くの若者たちを迎え入れた。そして多感な若者たちは、優しい食堂の小母さん
の内に離れて思う母親の姿を見出だして慕いよった。
生さぬ相手に「お母さん」と呼ばれて慕われることでトメさんは、人に明かせぬ彼
らの悩み悲しみあるいは恐れを聞き取りつづけた。知覧を舞台に短い人生を燃
焼しつくした、あるいは稀有にも奇跡ともいえる生命を拾った若者たちのことをい
ろいろな人たちが記しているが、一行も記したことのないトメさんの語る言葉の方が、はるかにその真実を伝え彼等への思いやりに満ちている。

彼女がとり出して見せてくれた古いアルバムには、ほとんどの写真がはがされ黒
い台紙には糊づけにされていた写真の白い紙裏の跡しか残っていない。戦後知
覧を訪れた遺族が乞うて、故郷に写真を送ることも禁じられていた息子や兄弟が
トメさんと写した写真を持ちさったからである。まだ複写の術も乏しかった頃、トメ
さんは遺族の心を思って乞われるままに貴重な写真を分け与えてしまった。「そして、ここにこうして残っているのは韓園と台湾出身の方々のものばかりです。遺族の手がこの写真にとどがぬこの人たちは他の隊員さんたちよりももっとお気の毒
な気がします」

目を伏せながらしめやかにトメさんはいっていた。
しかし、記念の写真に満ち満ちたアルバムよりも、そのほとんどがはぎ取られ、
わずか数葉の写真しか残さぬアルバムの方が、私にはかつての青春の悲劇と
栄光を語って余りあるような気がしてならなかった。

二十数年前、縁あって初めて知覧を訪ね、かつてあの若者たちがたむろした家
の二階でトメさんの話を間きながら、私は知らぬ間に正座していたのを覚えている。

明日の秘密裏の出撃をトメさんにだけ打ち明けて、沖縄の海で死んだら、故郷
の村でよく見た蛍になって帰ってくると告げた若者が、本当に翌日のタ刻、家の
裏手にある井戸の中から水仕事をしていたトメさんの前に現われ、気づいた彼
女が食堂にいた仲間に告げて、みんなが敬礼して見守る中を枯れた藤棚のむこ
うに消えていったという美しい挿話の舞台に、同じ遅い冬の午後に私も立ちつくし
たものだった。

当時ようやく建ったばかりの特攻観音に連れだってお参りした特、今は一面菜の
花畑となったかつての飛行場跡を眺めながら、彼女はまた恐ろしくも美しい思い
出を語ってくれた。

「終戦のすぐ後、タ方私が用事でここを通りかかると、その度、何かでいっせい
に火を点したように、急に向こう一面に鬼火が燃上がってゆらいだもの
です。
連れていた家の手伝いの者もいっしょにここでしゃがんでお祈りをしましてね、
そしたら暫くするとその火が消えていって---」 

年とともに知覧も変り、区画整理によってがつての食堂も新しく建て直され、飛
行場跡には公園と特攻博物館が建てられた。人々は博物館のヴィデオで、昔を
語るトメさんの姿を見ることが出来る。

彼女は今、老衰で不自由になった体を知覧の郊外の老人ホームで養っている。
毎日やってくる家族や施設の回りの人々に心をこめて見とられながら、落着いて
満ちたりた老後である。そしていつも思うことだが、家族を含めて知覧の人たち
が、彼女を、ある崇高な任務を果たし終えた人間として、密かに、しかし熱く誇り
としていることがよくわかるのだ。

それはなんといおう、過去の大きな悲劇の体験を通じながら人々が確認しあった
人間の愛に対する敬いであり、なつかしみに違いない。

そして、我々が目にすることの出来ぬ神や仏に代って、戦争の末期というあの
極限的な状況の中で、愛を果たしきったトメさんに、いかに年を経てもなお、私を
含めて多くの人々が仏の姿を見ることは、じつはごくごく自然な人間の条理に違
いない。

そして私自身にとって、この世でトメさんのような人にいき会えたことは、人間とし
ての至福といえるに違いない。実際、その手にたくさんの赤子をかかえた仏の姿
を私は目のあたりに眺めることが出来たのだから。
(雑誌「Voice」昭和63年4月号 P145~P147より引用)

(引用終わり)
 
 



今回石原氏の言葉が長年温めてきた思いなのだと感じます。
 
 



俺は、君のためにこそ死ににいく 公式ブログ「SAKURA便り」

(引用始め)

知覧の町には毎年5月3日に慰霊祭が執り行われ、この日は全国から特攻に
縁のある人々が集まってきます。今回この慰霊祭に映画のメンバーも参加させ
て頂き、石原慎太郎さん、新城卓監督、徳重聡さん、窪塚洋介さん、岸惠子さん
らが出席し、献花を行いました。式の間で石原慎太郎さんは、
「私は40年近く前
に初めて知覧を訪れ、トメさんにお目にかかりました。長い月日をかけてトメさん
から色々な話を伺い、その厳しさ重さに圧倒され、
気がつくと正座をして聞き入っ
ていました。以来知覧を訪れる度にトメさんを訪れました。
特攻という特異な命令で数日後に必ず命を落としていく若者たち。彼らがトメさん
こそ打ち明けた、喜怒哀楽の様々な挿話。
語り部であったトメさんから聞き取
った話だけ
を連ねて映画を作りました。」 と特攻の母・鳥濱トメさんとの出会いを
お話しました。
そして、 「時代を超え、立場を超えて絶対に継承しなければならない価値観を
喪失している気がしてなりません。下手をすれば亡国の道を辿らぜざるおえない
危惧を感じます。特攻に殉じられた皆様がその短い人生を代償に、示して残され
た絶対的な価値を継承し、この映画がその縁を担えればと思っています。私たちがこの国を亡国として失うことのないよう見守りください。」と慰霊の言葉を捧げま
した。

(引用終わり)
 




知覧特攻基地のこと

(引用始め)

(最初の部分一部略)
翌(昭和)17年1月30日、第10期陸軍少年飛行兵78名の若人が操縦教育を
受けるため、南薩鉄道(現在は廃線)の知覧駅に到着しました。彼らは駅頭を埋
めた町民から熱狂的な歓迎を受けました。飛行場までの約二キロの道を完全武
装で堂々と行進する少年たちの姿を見て、知覧町民は、このようなたのもしい少
年たちがいるかぎり、日本は戦争に必ず勝てると思いました。その時、町民と飛
行兵との間に断ちきることのできない心のきずなが結ばれたともいえます。
  早速2月4日から95式練習機(複葉機で通称”赤トンボ”)による訓練が始まり
ました。練習機が飛んでくると、町の人々は農耕の手を休め、また生徒たちは登
下校の途中、空を見上げて手を振り、飛行兵たちが励んでいる猛訓練に限りな
い声援をおくりました。飛行兵もまた機上から、これに答えてくれました。高高度
を飛ぶことのない練習機のことですから、その様子は地上から手にとるようによ
くわかりました。
  このような町民と飛行兵との友情の交換は絶えることなくつづき、知覧小学
校の運動会には飛行学校から多くの隊員も参加し、軍楽隊の演奏会には町民
や生徒も加わりました。
(中略)
17年3月8日の分教所開校式には、知覧町民や周辺の市町村民、学生や生
徒、官公庁、軍関係者など5万人余の人々が知覧飛行場に集まり、航空隊は編
隊飛行、急降下、反転飛行などの高等飛行を披露して参加者を喜ばせました。
しかし、それから3年後、この知覧飛行場が別離と哀切の特攻基地になろうなど
とは、町民のだれもが夢にも思わないことでした。
(中略)
本土最南端の知覧飛行場には、各地から特攻隊隊員が続々と集結しました。
そのなかには、知覧分教所出身の少年飛行兵や学徒出身の特別操縦見習士
官の姿もみられました。そして20年3月27日、軍の要請により、私たち知覧高
等女学校3年生も隊員たちの身の回りのお世話をするために動員されました。
  4月6日から7日へかけて第一次総攻撃が行なわれ、同12日第二次総攻撃、同16日第三次総攻撃と第十次まで特攻出撃がくりかえされました。その間にも
多くの特攻機が知覧から出撃しました。特攻隊員たちは夕暮れの中を、また朝
もやをついて知覧飛行場を次々と飛び立ちました。戦争が終わるまで、434機
の特攻機が南の空へ消えていきました。
(後半略)(「群青」知覧高女なでしこ会編より引用)

(引用終わり)
 




ホタルになった特攻隊員(宮川三郎軍曹)

(引用始め)

宮川軍曹は新潟県出身。長岡工業学校卒業後、一旦は民間会社に就職したが
大空への夢絶ちがたく、仙台航空機乗員養成所に入り、パイロットになった。そ
の後、特攻に志願した。5月に一度出撃して、飛行機の不調で帰還。戦友と共に
散華できなかったことに悩み、とめさんにその気持ちを打ち明ける手紙を書いて
いた。
  「先輩、同期生がつぎつぎと散華し、自分たちばかり残るというのは、心苦しい
ことです。この心は、わかっていただけると思います。だが、決して死を早まらん
つもりです。任務を完遂するまでは、断じてやります。ご安心ください。」
  その後、6月6日に再度出撃し、還らぬ人となった。とめさんが宮川軍曹につ
いてかたっているので引用する。
宮川さんが知覧に来られたのは20年5月の終わりごろと思います。雪国の人らし
く色白でハンサムな方でした。前に、万世飛行場から一度、出撃したのですが、機体の故障で引き返して、一人だけ残ったのを大変気にしておられましてね。ようや
く代わりの飛行機がもらえ、出撃する前夜の6月5日一緒に隊を組む仲よしの滝
本恵之助曹長と二人で私の食堂に来られました。宮川さんは[あした出撃だ]とご
きげんでした。帰りがけに「おばさん、あしたも帰ってくるよ。ホタルになって滝本と二匹でね。追っ払ったらだめだよ」と冗談のようにいわれました。食堂にく
るとき、どこかでホタルでも見かけたのだろうと、そのときは気にもとめていませ
んでした。
  翌6日はどんより曇った日でした。この日は総攻撃の日で、朝から特攻機がど
んどん飛び立ちました。夜になって、出撃したはずの滝本さんが一人でひょっこり食堂にやってきました。「宮川は開聞岳の向こうに飛んで行ったよ」といってぽろ
ぽろ涙をこぼしました。視界が悪いため、宮川機に何度も引き返そうと翼で合図
を送ったが、「お前だけ帰れ」といってそのまま飛んで行かれたそうです。
  夜の九時ごろでした。食堂には娘二人と滝本さんの三人。奥の広間には私と
遺書を書いている隊員が七、八人おりました。すると食堂の方で、娘が「あっ宮
川さんよ。ホタルになって帰ってきた」
と叫びました。一匹のホタルが開けてい
た食堂の玄関から、すーっと入ってきたそうです。もう大騒ぎ。滝本さんはびっくり
された様子でした。私は「みなさん。宮川さんが帰っていらっしゃいましたよ」といい、全員で「同期の桜」を歌いました。ホタルは長い間、天井のはりに止まってい
ましたが、すっといなくなりました。(以下略)
(「空のかなたに」葦書房より引用)

(引用終わり)
 




「アリラン」

(引用始め)

光山 文博少尉(本名卓 庚鉉)
光山少尉
 戦前、朝鮮は日本の統治下にあった。朝鮮出身者は士官学校などへの入学も許されており、中将もおられたとのことである。当然、特攻隊としても十数名の朝鮮出身者が出撃していた。「知覧特攻平和観音堂」にも十一名の朝鮮出身者が祀られている。
  朝鮮出身者のうち、鳥浜トメさんとかかわりの深かった光山文博少尉(本名卓 庚鉉氏)について取り上げることとする。

アリラン
 昭和18年、光山少尉は京都薬学専門学校(現・京都薬科大)から学徒出陣し、太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所時代の知覧飛行場に滞在した。知覧で特操一
期生として教育隊で操縦教育を受けたのである。この時から富屋食堂にはよく出入りをしていた。朝鮮出身で身寄りの少ないであろう光山少尉をトメさんは何かと気にかけ、台所に立たせたり、一緒に食卓を囲んだり自分の息子のように可愛
がっていた。
  昭和20年、光山少尉は第51振武隊員として知覧に戻ってきた。今度は特攻
隊員としてである。以前にも増して淋しそうな光山少尉をトメさんは温かく迎えた。そして、5月10日の夜、出撃前夜にトメさんは食堂に一人でいた光山少尉を自
分の部屋に呼んだ。長女の美阿小さんと次女の礼子さんと4人でいた。トメさん
が光山少尉に歌を歌うよう促したところ、
「今夜は最後だから、故郷の歌を歌うよ。おばちゃん」と言い、歌い始めた。

アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠を 越えていく
私を捨てて 行く君は
一里も行けず 足痛む

光山少尉は帽子のひさしを鼻の下までおろして顔を隠したが、その下から涙が
流れ落ちていた。皆もたまらなくなって泣きながら「アリラン」を歌った。光山少尉
は歌い終わると、懐から朝鮮の布地で織った黄色い縞の入った財布をとりだし、
筆で「贈為鳥浜とめ殿 光山少尉」と書いた。「おばさん、大変お世話になりまし
た。お世話になったしるしとしてこれしかありません。はずかしいですが、形見と
思って受けとってください」と言った。光山少尉は1年前に母を失い、3月に年老
いた父と妹を朝鮮に送り返していた。翌日早朝、袖に日の丸を縫いつけた光山
少尉は見送りに来たトメさんと握手を交わし、南の海に出撃したまま二度と戻ら
なかった。参考・一部引用:「群青」、産経新聞平成12年11月28日「特攻の母
・鳥浜トメ(中)」、会報「特攻」第44号)

(引用終わり)
 
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無題
井筒も問題ですが、それ以上に問題なのは、あんな電波映画監督をTVでコメンテーターとして起用するメディアです。
サヨクだろうが、電波垂れ流そうが個人の自由です。
しかし、それを公共の電波に乗せて全国に発信するのは問題です。むしろ犯罪です。
URL 2007/05/12(Sat)17:52:40 編集
Re:無題
おはようございます。

客観的に見ても、変な宗教のようです。
罪悪感というのはなく盲信しているようです。

誰より歴史をよく知っている発言も、恥ずべきことだと思います。
【2007/05/13 08:25】
久し振りに期待できそうな戦争映画ですね!
初めて書き込みします。よろしくお願いいたします。

今日、ラジオで「俺は、君のためにこそ死ににいく」の監督が沖縄出身と知り、俄然見に行きたくなりました。

本島の監督は娯楽性を優先するためリアリティーに欠けたり、思想的に偏っていたりして白けてしまいますからね!
ただ、タイトルが・・・

「 パッチギ! LOVE&PEACE 」はテレビで見ます。
2007/05/12(Sat)23:12:15 編集
Re:久し振りに期待できそうな戦争映画ですね!
コメントありがとうございます。

こちらこそ拙いブログですがよろしくお願いいたします。

監督が沖縄出身とは知りませんでした。

泣いてしまいそうで妻と行くのをためらっております(苦笑)
【2007/05/13 08:34】
無題
特攻攻撃で亡くなられた若い方々のご冥福をお祈り申し上げます。
戦後のわが国がこのような方々の犠牲の上にあることを片時も忘れず、品行方正に生きていかねば
…と思いました。
みまさか 2009/06/11(Thu)23:39:00 編集
Re:無題
コメントありがとうございます。

ご先祖様に感謝ですね。
私もこれに尽きるように思います。
【2009/06/12 10:21】
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